1月第五週 今週楽してる

1月29日火曜日記す



やろうと思っている間に時間は過ぎていくみたいなことってあるわけで、月曜日から書こうと思ってたんだけどね。
最近思っていること、風呂に入りながら歯を磨くことにしているんだけど、歯を磨くときに人は自分の見えていない歯たちをどのように思い描いて歯ブラシを当てているんだろうってふと思ったんだよね。人それぞれ思い描き方あると思うんだけど、自分は歯にブラシが当たっているところがくっきりクリアに歯があるって感じで、それ以外は歯がないって感覚に近いんじゃないかなって、まだわからないんだけども。ないって言い切れないんだけど、だからといってここに歯があるぞなんてずーっと感触があったら面倒というか、絶対四六時中気になって仕方ないんじゃないか、ちょっと歯の治療しただけでも違和感が生まれるくらい口の中って敏感で保守的だから、歯があるみたいな感覚は感じていても無視しているか、感じないかのどっちかになっていて、歯ブラシが改めて当たれば、お、歯があるじゃんかってどうしたって思っちゃう。思えば、見えていないで言えば自分の顔、表情だって見えてないわけだ。見えてないつながりからの連想ね、ということは表情って他人のためにあるんだな、顔もそうだ、姿って基本的に自分のためにはない、ってのは言いすぎだろうけど、自分のためだけでは絶対にない、山の中で一人で暮らしているなら話は違うけど。人間は社会性というものを発達させて、自分自身がヘロヘロのヨワヨワでもみんなで助け合って生きていくことを選び、そしてそれが地球環境にフィットしてくれたから生き残れているわけで、だから社会性ってのはとても大事ね、小学生か。小学生のがもっとおもろいこと言うわ。あほか。猿頭のクラゲ脳か。
何回目かの保坂和志の「遠い触覚」を読んでいるんだけど、毎回デビット・リンチの映画見たくなる、中でデビット・リンチの話をずっとしているからなんだけど、家に「マルホランド・ドライブ」と「インランド・エンパイア」「ロスト・ハイウェイ」もあるんだけど、手付かずのまま。ベケットの小説と同じ。何時見るんだよオレよ。


1月30日水曜日記す


SMAPのらいおんハートって曲あるじゃないですか、サビの部分の歌詞、いつも思うんだけどめっちゃ自信満々というか、すごい偉そうというか。
「君を守るため そのために生まれてきたんだ」はまあまだいいよ。
「あきれるほどに そうさ そばにいてあげる」ってな、あげるんだとよ。って思ってしまう。そばにいてあげるなんてよー言わんわ。って思っちゃうんだよね。
そばにいてあげるよ、って嬉しいかな、いやタイミングってあるからね、うれしい時に言われたらそりゃ嬉しいだろうけど、好きな人からでもそばにいてあげるよって先に言われたかねえなあって人もいるよね、俺はどうだろう、いや結構って言うかも、いや言わないけど。そばにいてほしいなら分かる、つまり欲求するのはわかる。でもあげるってなんだろ、一度でも欲しいって言ったか? っていや、相手が好きな人ならうれしいか。いや全然こんなこと書くつもりなかったんだけどさ。
神の子どもたちはみな踊るを読んで、久しぶり、読書メーターによると16年に読んでいるから三年ぶりか。読むたびに最後の「蜂蜜パイ」って話が苦手になってくるんだよね、途中の表題作になっている「神の子どもたちはみな踊る」と「かえるくん、東京を救う」「アイロンのある風景」はすごく好きなんだけどね。「蜂蜜パイ」だけなんというか、雰囲気が違う。具体的に何が違うっていう分析には興味がないし、そんな力もないのでやらないけど。「蜂蜜パイ」は書きすぎている感じがしてどうも、特に主人公のモノローグ、ラストらへん、ちょっとキレイにたたもうとしすぎた感だなと、つまり自分のフィクションのなかにああいう感じのは存在しないし、経験もないということだ。勿論、ああいうことを経験した人は、ああこれは自分の話だって思ったりするのだろう、村上春樹の小説はそういう半分勘違いみたいなことを起こさせやすいと思う、ノルウェイの森なんて誰もが主人公になったはずだ(偏見)、男ならワタナベノボルだっけか、いや違ったか、彼に感情移入してしまうだろうよ、いや言い過ぎたな。でも、少なくとも僕はああいう感じのこと、状態になったなあと思ったことがあるし、あ、これ自分じゃんってなったからやっぱり何かしらの普遍的なものは描かれていたんだろうなと、じゃなかったらあんなに売れないっしょ。日本で一番売れた小説よね確か。世界の中心で、愛をさけぶが二番手かな。まあこれはどーでもいい。
神の子どもたちはみな踊るは、地震の後という形での連作なんだけど、地震というものはじゃあどのような捉え方なのか。地面が揺れるということ、根拠という言葉を翻訳するとわかりやすくなる、英語だとbasis、ドイツ語だとgrund、基盤、地面という意味を持つ言葉が出てくる。地面と根拠、基盤、土台、という言葉が同じ言葉で表現されている、日本語だと地盤を固めるという言い方で、根拠となるもの定めるという言い方はあるけれど、地震の頻度が違うからそこまではっきりと、地面は揺るがないもの、揺るがないものとしての根拠という言い換えが生じていないようにも思うけれど、とにかく地震が起こるってのは根拠が動くこと、昨日までしっかりとしていたはずのものががらりと変化してしまうことでもある、みたなことを佐々木中の著書で読んだことがある、たしかその時にクライストのチリの地震って短編について語ってたけど、この小説もそうとう面白い。引用しようと思ったけどものすごく長くなるので「仝 selected lectures 2009-2014」ってやつに載ってるので気になった人は読んでみるといいと思う。地面が揺れると、どうしても根拠、つまり昨日まで確かだったことが動いてしまうことで、人は動揺する、動揺なんてレベルじゃないかもしれない、日常だと思ってたのに一気にそれが、今までの秩序だって、そうした中で言葉を紡ぐこと、言葉というものは秩序そのものです、昨日までの秩序の動揺によって言葉の使い方、意味も変化しているんじゃないか、東日本大震災のときも沢山の人達が言葉を発しましたけど、揺れたから、また新しく秩序を作っていかないといけないからこそ言葉を使っていく、そこに軽率も何もない、それこそが人間である、とも言えちゃうんじゃないかなあって、まあ実際ここまでわりと文字を使って書いたけど、頭の中だとほんの数秒だよね、ほんと言葉ってそういう意味ではまどろっこしいし、全然整理しないで書いたからまた読みにくいわけで、日記だから、日記、あんまり真剣に読まないこと。あっぱらぱ。


1月31日木曜日記す


仕事終わり、だいたい五時から六時の間に仕事場から外に出ると、ちょうど最近は目の前の空に下弦の月が見えて、その下に明るい星が二つ。その二つは多分惑星で、なぜなら他の恒星、夜によく見えるオリオン座とか、ぱっと分かるのがオリオン座しかないのでそれ以外は北斗七星とかもあるだろうけどそれらがよく見えていたのに、明け方の空にはそれらの星は見えない所に沈んだか、光が弱いから見えなくなってしまっていて、だから恒星より惑星と月が圧倒的に明るく輝いているのが見えるんだけど、月の満ち欠けって早っって思うときと、ずいぶんゆったり欠けていくんだなあと思う時があって、少し見ない間にずいぶんとみたいなこともある、月は約三十日かけて満ち欠けするわけだけど、ってことはだいたい同じくらいの満ち欠けを毎日しているはずなのに、満月だと思ったらあっというまにやせ細った月が見えたなあってこの間思った、この妙に欠けたなっていうのは単なる誤認ってことなんだろうけど、科学的に言えば、感覚的には違っていて、毎回同じようにというのが間違っている、いや科学だって毎回同じくらい欠けていくなんて思ってない、思ってというか観測していないわけで、見る時間帯でも違うし、厳密に全く同じ場所同じ時刻で毎日観測すればきっと同じと言っていいくらいの速度で欠けていっている、んだろうけど、感覚的に月は急に欠けたり欠けなかったりするというのが頭の中から離れないので、同居させておこうと思う。ファミマ限定のアイスの実洋梨味が食べたいので明日買って帰ります。


2月2日土曜日記す


2019年も1ヶ月過ぎた。早いとか遅いとかまあもうどうでもいいです、時間ってのは一様ではないのでね。体感とか主観というものをもっと大事にしないといけない。客観こそが重要で、客観的見地でないと認められないみたいな、科学的っていうんですかね、それは世界の切り取り方の一つの方法「でしかない」ということにもっと気付かないといけないのは、つまりどうやっても「私」は「私」の「目」でしか「見る」ことができない、ということも「科学的」であってこの考え方も結局は科学に加担する。
自分がこう感じましたということは、多分ほとんど他の人には伝わらない。伝わらないから、言っても仕方がない。という態度はほんとうに正しいのか?
伝わらなくたって、言葉にすることは必要なのか、いや言葉にすれば、言葉以前で伝わる。というか、伝わる人は言葉というものを通すが、その言葉はOKなら黄色いハンカチをベランダに出しておいてください的なもので、その内情を言葉が持つ意味で「知る」わけでもないし「わかる」わけでもない。伝わるかな。もうちょっと書いてみるけれど、伝わるってのは言葉によってではなくて、その言葉はあくまでも「合図」のようなものでしかない、その合図があればなるほど彼の人も私と同じ「感覚、雰囲気、空気」を知っているのだ、とわかる符丁になっているということだ。言葉とはでもだいたいそういうもので、だから言葉で説明したって何もわからないに等しい。入り口の場所はわかるが、奥に十分広い、というか先が見えないなんてレベルじゃなく果てしない、その果てしない場所の共有こそがわかる、と定義というか固定してしまえばまたそれも入り口となるようなものが「わかる」になっているのが、出来事の共有という困難なんじゃないか。伝わっただろうか。

今日は原美術館にソフィ・カルの作品を見てきた。ソフィ・カルは始めて海を見る人のバックショットを映像化した作品が好きだし、盲目になる直前の記憶の記録も大好きだけど、今回も文字での作品で、反復する同一の時間の、時間経過における記憶の薄れと興味の消失と自分の身に起こったことへのインパクトの弱り、それから同じように喪失した出来事の記録、それらは言葉になって読むことができたが、そこで本当にその人の身に起こったような「痛み」まで再現されないのが言葉で、でもほんとうはどうなんだろうか。「痛い」と書いてあるのを読むだけで、読んだ人まで痛くなったら大変なことだけれど、本当は「痛く」ならないといけないんじゃないか? そのくらい深く共通してしまえる心というか、マインドというか、立ち位置というか、態度というか、そういうものを人間は持てるはずなのだが、今流通している言葉はそういう「臭い」を消してしまっている、という流れの中にあるので、今の社会でそういうことを感じてしまえば「病気」であり、「治療」する必要があるなんて言われるけれど、本当は書いてあればその気持ちに「なってしまわないといけない」くらいの切実さで、作品や人の言葉に対峙することができないといけないんじゃないか、自分の感受性くらい自分で守れという言葉があるが、

「言葉は根本において、意味を伝達するなどという静的なものでなく、目や耳からの刺激を自分自身の肉体に襲いかかった出来事と混同させるという、暴力的な事態を人間の精神に引き起こした。」*1

とあるような、こういうことなんじゃないか。こういうことで日々暮らしていたら、でも体はぼろぼろになってしまうんじゃないか、と心配してしまうがどうだろう。

*1:保坂和志「遠い触覚」河出書房新社 P93