2月四週 今年もはやい。

3月3日日曜日記す



少しずつ書く頻度が減っている、し、最近言葉が出てこないので全然しゃべらないし、いやしゃべらないから言葉が出てこないのかもしれない。なんにせよプチ鬱みたいな感じになっているけれど、決して鬱ではない、こんなもんではない。花粉にやられているのだ、花粉のせいで鼻呼吸しにくくなり、そのため頭が働かない、寝不足もあるし、疲れも溜まっている、来週は金土日月と休みを取るのでね、日には阿部芙蓉美のライブを聞きに。昼間からという、いい時間帯だ。夜でもいいんだけど、昼ってのもいい、その後にいろいろできる、夜だと聞いてオシマイ帰るってだけなのがもったいない気がしてね。さっき見てきたグリーンブックについて書こうか。グリーンブックがアカデミー賞を獲ったとき、グリーンブックは相応しくないんじゃないかと批判が出たという話を、記事を見たのだけれど、なんて健全なんだろうなと思ったね、そしてあくまでもあの批判はグリーンブックという映画自体の是非ではないんじゃないか、と思ったけど、実話をもとにしているのでもとになった人たちの遺族が、誇張しすぎ、きれいに描きすぎみたいなことを言ったとか言わないとか、まあこういう話って100で聞いてたらいけないよね、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないくらいのふわりとした位置に立っているくらいがちょうどよくて、実際映画はとてもおもしろかった、単なる黒人差別色濃い時代の南部の話という重たくなりがちなものを、コミカルにというやり方、もちろんそれが良いかどうかは誰にもわからない、でもおもしろかったのは事実としてある、確かに絵に描いたような凸凹コンビなんだよね、ヴィゴ・モーテンセン演じるトニーリップ、イタリア系アメリカ人とマハーシャーラ・アリ演じるドクターシャーリー、ステレオタイプだという言い方は可能、でもやっぱり面白いからこそステレオタイプになるとも言える、人は見たこと無いものよりもあるものに対して親近感や納得をしやすいのだから、映画という興行として考えればどこにステレオタイプを使い、どこに新しさを使うのかというのは取捨選択で、全部新しかったら単館のマニア向けみたいになっちゃう(ということ自体もステレオタイプって言えるかもしれない、でも流行りにくいだろう)、差別ってものの厄介さは、差別というものは生活に根付いているってところで、その中にいる人は差別に気付かないということだってぜんぜんあって、日本も差別大国だと思うけど(ツイッターや連日のニュースを見ていればわかる)、インターネットやってなかったら絶対気づかなかったと思うことも山ほどあるし、今でも気づいていないことあるだろうなと思うわけで、グリーンブックはそもそも企画段階でトニーリップ側から出ている(なんでも息子が企画を持ち込んだらしい)せいかやっぱり白人目線というか、黒人側がどうだという批判が出ているらしい、そういうものははっきりと見てて気付かなかったのでやっぱりまだまだだなと思ったり、どのへんが白人目線だったんだろうってね、白人側からの黒人の描き方ということらしいけど、日本人というか俺自身がそもそも白人(といってもユダヤ系とイタリア系、アイルランド系でも異なるよねえ)も黒人(同様に出自で変わることいっぱいあるけどこういう言い方になっちゃう)もよく知らないので、コメディ映画としてゲラゲラみたいなね、もちろん差別というものを考える、感じる、意識するということもできる映画なんだけどさ、あいかわらず思いつきで書いているのでぐちゃぐちゃだけど、あくまでもフィクション、フィクションだからこそ正確にということでもあるし、フィクションだからこのくらいわかりやすくでもいい、別に差別のための映画ではないし、啓蒙するための映画でもない、娯楽ということでもある、けれどだからこそもう少しうまくできなかったのかという思いはあるだろうなと想像はするけど実感できない、でも意識はできる。複雑だね、世界ってホント。