3月三週 やがてすべてはひえていくこと

3月18日記す


トーキョーアーツアンドスペース本郷でやっている展であるところの霞 はじめて たなびくでの展示や森美術館でも展示されている佐藤雅晴さんが亡くなったことを知った。いや、別に私は生前の彼に出会ったこともないし、ただ最近名前を知った程度の人間だが、それでも人が一人亡くなるということは、その対象が自分に対してどの距離にいたって、体に負担が来るくらいのインパクトはある、先週起こったニュージーランドでの事件でもそうだが、人が死ぬということを知ることは、とても負担である。できれば誰も死んでほしくないし、知らせないでくれと思うくらい嫌なことだ。ましてや身内から出たらどうなってしまうことか、胃に穴が開くんじゃないか、ストレスで。だいたい私の胃腸はストレスに極端に弱い、昔ケチって自動車学校を非公認のところへ行っていたせいで、仮免の試験や本試験を府中の免許センターで受けないといけなかったのだけれど、仮免のテストを十回に迫るくらい落ちてしまっていた、多分親もどうしてそんなに落ちるんだと思っていただろうし、自分でもこんなに下手くそだったかと思っていたが、一応書いておくと練習だと全く問題がない程度には運転できていたのだ、問題は試験というプレッシャ、警察官というプレッシャだ、もちろん試験監督であるところの警察の人に罪があるわけではない、勝手にこっちが緊張して、勝手にこっちがプレッシャを感じていて、勝手に自滅し続けていたというだけだ。その際うまく運転できなかったときに猛烈な胃の痛みを感じていた、毎回だ、あれがまた起こるかもしれないと思うだけで憂鬱で胃腸が悪くなる。思い返せばというか、自分にはその記憶がないが、幼い頃、二歳くらいで一度胃腸の関連で入院したことがあるらしいくらいは胃腸が弱いのだ、しかしちびまる子に出てくる山根くんほどではない、彼のほうが繊細だが、昨今は季節の変わり目ということと加齢による体の衰えが見え始めているのだ。
いよいよあらゆるが老いである、生まれればその瞬間から老いが始まっている、成長とはときに老いることでもある、老人が何事にも動じなくなり、達観した姿を見せるのは、脳の老いによる反応の鈍さでもある、人間の人間である所以の新皮質、脳の一番新しい部分から衰えて、中心に近い爬虫類にもあるような部分に残っているのは感情だ、そして感情は判断の厳選でもある。生きることはなにかからの回避であり、回避の判断は感情がしているということだ、いやもっといえば新皮質的にも可能だが、原始的な脳の部分でも可能であるということだが、人間の脳みそだって爬虫類のままにしておいたわけでもないので、決してイコールではないにせよ、多分ココまで読んだ人は何を言ってるのかわからないんじゃないか、説明が少ないからでもまあいいのだ。ようは体調が悪いってことだ、いや多分眠ればいいだけなのだがいかんせん眠る時間が足りないのだ、本も読みたいがまるで進んでくれない。今日は滝口悠生芥川賞を獲った死んでいない者が文庫化したのでそれを買っておいたやつを読み出したが、今のところはまだふむという感じである。だいたい芥川賞は受賞させる作品がおかしいときがあるで有名だ、その作品より前回のやつのがいいよとか、そんなこともたくさんある。だいたい芥川賞は選考委員のメンツがあまり変わらないのが良くないと思う。他の賞みたいに数年で変わるべきだと思う。