おぼえていること

 保坂和志カフカ式練習帳に、ピンチョンは時々唐突に感傷的な文章を書くみたいなことが書いてあった。ピンチョンはまだ読んだことがない、逆光も重力の虹も読みたいし、全集出ているんだから買えばいいのだが、やっぱり置くところがない。小説は長いほうがいい、短編にも名作と呼ばれるものはある、でも短編の名作性というか良さというか、そういうものと長編のそれはぜんぜん違う。なぜならば小説は(もちろん小説だけではないが)時間とともにある芸術だからだ。娯楽とか息抜きとしての小説というものを個人的には認めないが、他人がそう思うことを妨げようとするつもりはない。そういうことを聞けば、心の中でああそうね、と思う程度である。脱線した。長編は長い時間をかけて読んでいくものだ、そういう時間を経なければ得られないようなものがある。今の御時世、みんなだいすき時短だの攻略法だのすぐに時間をショートカットしようとする姿勢があるけれど、あんまりよくないと思っているよ。積み重ねることでしか、たどり着かない場所がある。イチローを見ればわかることだと思う。


 ただ、イチローのような超人的な存在と一般人を同列にしてはいけないようにも思うが、なにもイチロー並に努力しろと言いたいわけではなく、イチローのように毎日積み重ねられればいいというあくまでも理想論である。そして理想がなければ人間の視界は開かれないのではないか。
それにしてもカフカ式練習帳はとても面白いのだけれど、あいにく自分が面白いと言っても誰も読んでくれない。ツイッターで言っても、読んだよーって言ってくれた人が誰もいないのでわりと寂しい気持ちにはなる。共有できないということは、しかし、マイナスではなくゼロなはずで、ゼロなら負債ではないのでいい。何回かツイッターでも言っているけれど、何かを得られなかったことを損をしたと表現する人たちが多いように観測しているが、元から持ってないものを得られなかったらそれはゼロなだけで、プラスでもマイナスでもないはずだ、感情的にはマイナスでそれを損をしたと表現したのかもしれないが、それなら得をしなかった、でもマイナスもしなかったと思ったほうがプラスに働くのではないかと思っている。手がかじかんできた。

 んでカフカ式練習帳だけれど、いろんな文章の断片が書かれている中にわりと高い頻度で保坂和志の猫の話があるのだけれど、彼が二十年近く一緒に暮らしてきた猫が年老いて死んでいく周辺のことを書いたのを読むたびに、実家で飼っていた犬のことを思い出す。犬は自分が中学生の時から飼い始めたので、だいたい十五六年生きた計算で、真っ白い洋犬と和犬のミックス、おそらくハスキーが入っているのではと言われるくらいで実際どうなのか獣医も判断がつかないような種類の三匹兄弟(姉妹)で捨てられていたのを、里親ボランティアの人が拾って募集していた一匹を譲り受けて、結局うちの犬が一番長く生きたと、その里親ボランティアの人は言っていた。犬が死んだ日は4月の正確に忘れたがもうすぐその日なはずで、朝早くに母親から犬が死にそうだと連絡を受けて、自分はそのときに口調というか言い方的にまだそこまででもないだろうと思って、十時くらいに行くと答えたけれど、結局十時まで生きてなく、八時くらいには実家に向かっていた。自分の周りに死があった経験が殆ど無い人生は幸せなのか不幸せなのかと聞かれてもわからないが、確認している今まで自分の周りで死んだ人は、中学の時に習っていた先生が二人、父方の祖父母(でも式には出ていない)くらいで、だから犬が一番近くの存在というのも変な話かもしれないが、その犬とも中学高校大学くらいの付き合いで、だから十年も一緒に過ごしていなかったし、最後に会いに行った前は多分一年以上は空いていて、もうヨボヨボでおしっこも所定のところでできないという具合で、いや一年は言いすぎかもしれない、でもそういう姿を見るのはやっぱり辛いことだ、辛いから見たくなかったのだろうと今書いてて思った。でもやっぱり会いに行くべきだったのだろうし、そう思ったならそうなのだ。家についたら、そのときに家族が住んでいた一軒家の玄関を開けてすぐ左側に二階へ上る階段があってその階段の下に横たわって死んでいたのが犬で、もう冷たくなり始めていた。
 最近東武動物公園の中にある犬と猫に触れ合えるカフェ要素のないドッグカフェ的な何ていうのか知らないけれど、そういう施設に行ってきたけれど、中に入るとすぐに犬たちの、独特な犬の匂いがしてすごく懐かしい気持ちになった、懐かしいというよりもうちの犬のことを思い出した、同じ様な匂いがしたし、犬の匂いってのは結局みんな大して変わらずみんな犬の匂いなのだろう、臭いと言ったら臭いけれど、臭くないと言ってもそのとおりだとしか言えないような、独特な匂い、死んだ犬の身体からだって同じ匂いがしたし、カフカ式練習帳に

 ポッコは節外型リンパ腫が鼻の奥にできたため、症状が進むにつれて呼吸が臭くなった。夜遅くポッコが静かに眠ったので、そろそろ私も寝ようと歯を磨いていたら、急にポッコが心にリアルに浮かんだ。ポッコの匂いによる作用だった。脳の嗅覚の部位と記憶の部位は近い。嗅覚の刺激はダイレクトに記憶に訴えかける。

という部分があり、それを思い出した。

 匂いがすでに私の鼻にこびりついてしまったのか? 洗面台の後ろにある猫のトイレの周辺にポッコの匂いが漂いつづけているのか? と考えていたら、猫のトイレの脇までポッコが来ていた。猫は音もなく動く。猫嫌いは猫のそういうところを陰険と思うのだろう。すでにポッコは私には姿を目で把えるのと同じほど、鼻が匂いを把えるようになっていた。
 死の二週間前になると匂いは激しさを増し、しばらくポッコを腕の中に抱いているとTシャツや髪の毛に匂いが染みつくと思われるほどで、私はベケットの『マロウンは死ぬ』の一節を思い出した。
 マロウンは――そこではマックマンとなっているが――病院か老人の施設か収容所の隔離病棟のようなところにいる。小さくて醜い女の看護人がマックマンの世話をする係となり二人は愛し合うようになるのだが、ある日彼女は来なくなる。彼女は胃ガンだった。胃ガンが進行するにつれ、彼女は自分の臭い息で嫌われないようにマックマンから顔をそむけるようになっていた。彼女が胃ガンで死んだことを優しさのかけらもない新しい看護人から聞かされたマックマンは、「それが彼女の匂いであるのなら、胃ガンでどんなに臭くなった息だろうが、私は胸いっぱい吸い込みたかった」と思う。

という部分も思い出した。
あのとき、犬は生きていたときと同じで犬臭かった。でも僕はそのにおいを、犬臭いにおいを全く気にしなかったし、それは彼が生きていた間も、おもしろがって臭い臭いとは言ったが、犬自身にはわからないであろうが、でも本当に臭いなんて思ったことはなかったし、生きているときと同じにおいがする距離までしっかり近づいて