無為

 言葉はそれ自体が置き換えを起源としている、という言い方であっているのかわからないが。
 眼の前の現象であったり、眼の前の物体に対して、名付けをすること。それは言葉とそのものとの置き換えで、そこに交換可能があるからこそ、遠隔地でもそれが伝わる。
 例えば、りんご、という言葉は、あの丸くて基本的に赤くツヤツヤした表面の果物を意味している、眼の前のりんごと「りんご」という言葉は交換可能で、りんごを表すために実物を見せる、そしてそれは言葉で「りんご」と言うことと交換できる、両者ともりんごを表せる、違うのは実物は実物で、「りんご」は言葉で概念である、概念というよりも身体がないというべきかもしれない。しかし、声や言葉、言語に身体に相当するものがあっても、りんごそのものと「りんご」は違う、置き換えは可能だが、違うものとして明確に区別されている。
 どうして違うものとして扱うのか。それは言葉はりんごのように食べられないから、つまりその実物の持つ特徴を言葉は全て持てない、持っていないということだがから、違うものだとできる。もし言葉が食べれれば、味があれば、「りんご」と言えばりんごを食べることが出来ることになる。しかし、あくまでも置き換えなので、実物、ボディ、身体の置き換えではなく、その実物が持つ意味や役割の一部やそれによって賦活されたり不活性化されるイメージの置き換えを行うのが、実物と言葉の交換。


特に何か言いたいわけではない。実物と言葉との関係というか、起源部分からのイメージで、言語、言葉自体が比喩のようなものではないかと思って考えたことを書いてみた。部分的には間違っていないと思う。まるで~のような~というのが典型的な比喩だけど、猫を「ねこ」とするその音や文字、他の言葉との兼ね合い、そこに比喩的な発想があるように感じているが、それをうまく言葉に出来ないので全然わかりにくい書き方になってしまっている。直接わかりやすく例えているというよりも、その例えという発想に似たようなものが言葉、言語、名付けにはあるように思う。という予感の話。

この世のもの

この世のものとは思えない、という言い回しがあるけれど、この世のものであるわけだ。あたり前のことだけど、それを成立させるためにはこの世のもの以外ありえないし、あらゆる想像はこの世に現れたもの以外はありえない。考えたことないことを考えることができないということと同じで。
故にこの世のものとは思えないことがある。思わず出会ってしまった。

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うまく言えないが、うまく言うつもりもない。

 記憶を言葉にしてしまえば、というかそういうことって滅多にないのかもしれない。誰かにあの時あーだったと話すときくらいだろうか。自分ひとりだったらそうするだろうか。そうすることで記憶が定着して思い返せることも増えるかもしれない、ただ一人で生きていれば昨日と今日の区別はつくかもしれないけど、二年前と三年前の区別はつきにくくなる。10年とかならわかるんだけど。短期記憶と長期記憶があるとすれば、短期のついさっき、昨日とかその程度は勿論大丈夫だし、長期記憶は老化に従って忘れるだろうけどそれは普通のことだ、でも短期と長期の間の記憶に明らかな差が生まれると思うのだ。いやいや、そんなことが書きたかったわけではないのだけど書き始めたら書いてしまったのでね、仕方ない。

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