うまく言えないが、うまく言うつもりもない。

 記憶を言葉にしてしまえば、というかそういうことって滅多にないのかもしれない。誰かにあの時あーだったと話すときくらいだろうか。自分ひとりだったらそうするだろうか。そうすることで記憶が定着して思い返せることも増えるかもしれない、ただ一人で生きていれば昨日と今日の区別はつくかもしれないけど、二年前と三年前の区別はつきにくくなる。10年とかならわかるんだけど。短期記憶と長期記憶があるとすれば、短期のついさっき、昨日とかその程度は勿論大丈夫だし、長期記憶は老化に従って忘れるだろうけどそれは普通のことだ、でも短期と長期の間の記憶に明らかな差が生まれると思うのだ。いやいや、そんなことが書きたかったわけではないのだけど書き始めたら書いてしまったのでね、仕方ない。

 書きたいと思って書き出した自分と、実際に書いている自分は多分厳密に言えば別だ。そうやって自分が自分と思っている自分以外に自分が別に生まれてくるのが人間だ、そしてその他者とも言える自分と思ってもみなかった、現れるとも思っていなかった外部としての自分がここにいて、そしてそれを排除せずに受け入れてこうやって書いていくことが出来るというこの複雑さを、いとも簡単に可能にしてしまえる能力が人間にはある。いやそんなに複雑じゃあないですよってことかもしれない、でも人工知能にはできない。最近最後まで読み終わった郡司ペギオ幸夫の天然知能がまさにそういう話だったからか、といっても向こうのほうが圧倒的に難しい、複雑なこと書いてあるんだけど、でも決してこっちだって遠いことを書いたわけではないというのが自分の理解である。まあそんなもん偉そうにしたってなんの意味もないのだけど、偉いとは思ってないけど。

 
 わりと最近珍しく人と会話をする機会を得て、なんかそうしていたらいろんなことが開いてくるのがわかる。今までできなかったことややってこなかたことに、それへ欲望がまったくなかったわけだけど、なんか欲張ってくる自分が見えるというか、気持ちが湧いているという。やはり行為なのだなと思う。人間にとって一番クリティカルに響くのは行為だ、言葉も人に影響するものの一つだけど、行為の一部分でしかない。人と話すことは、人のことを考えることだ、相手がどう思うか、どう感じるか、話題を切り出すときに相手がそれに乗っかってくれるか、乗りやすいだろうか、どこまで訊ねられるだろうか、一瞬にして計算して発している言葉は、頭の中で意識が捉えられるような形でリハーサルされていないから、うかつな人はそこでボロを出す、失言をするんだろうけど、自分はあまりボロを出さないから良かったなと思うけど、相手が正確にどう思っているかわからないから、相手が我慢したとか、本当はブチ切れそうになったけど抑えてくれたとかあるかもしれない。それは自分では到底わからないことに属する。


 天然知能のなかで局所性ということが出てくる。簡単に言えば、A地点で起こったこと(での情報)をA地点に影響を与えることなく知ることが出来るというもので、この概念がホント頭に入ってこないから何回も本をめくって、合ってるかなと考え直すんだけど未だにわかってないけど、相手がどう思っているかを知ることは、相手に影響せずにはほとんど不可能なのはわかると思う。相手に問いただしても、関係性によっては必ず「ハイ」と言わないといけない、言ってしまわないとぶん殴られるとか後で怒られるとかで、そういうことは相手に影響を与えていることになるわけだ。その影響はどんな関係にだってありえるとは言い切れないかもしれないが、でも存在しないことを証明することだって難しい、おそらく不可能だ。相手の顔を見てどう思っているか考える、その考えている表情を見て相手はまた別のことを考えたり、考えを180度変化させるかもしれない。一対一であっても恐ろしく複雑なことが起こりうるのが関係であるが、それが何故こんなに面白いのか!! エクスクラメーションマークもっと使いたいくらいだ。


 ただこれは自分にとってデザートと言うか、何年に一回しか食べられない超高級なスイーツみたいなものにしておきたい気持ちがある。毎日やっているのが普通の人たちなんだろうけど、この味に慣れたらヤバいんじゃないかと思うけど、そう思っている自分のほうがきっとヤバいのだろう。そこに不幸があり、苦役があるかもしれないが、当座甘いぞこれはという。麻薬だな、うん。