そんな思い上がったことが思い上がったこと

 人間は自由だが、その自由とは何を指しているかまではなかなか話さない。人それぞれ自由に生きている、ことが可能な世界であることが前提ではないのが世界だが、少なくとも日本での自由はまだ自由と呼べる程度には自由であると言える、King Gnuの白日聞きながら書いているんだけど、歌詞と書いている文字が混ざるというか、歌詞が書くことの邪魔になってしまうけれど、これが日本語じゃなかったらきっと違ったはず、でもこれだって自由だ、聞きながら書くは聞かずに書くよりも自由? よりもなんてあるのだろうか、本当に。どっちも可能であることが自由だろうか、更に別の音楽を流して二重に音楽を流しながら書くことだって出来ることが自由だろうか。つまり潜在していることが自由だろうか。

 するな、出来ない、禁止、やめろ、いろいろある。誰に、何に言われるのか、何が止めるのか、何が自由を奪うのか。絶えずそこには選択がある、別段言うようなことでもない。常に人間は選択をしているんだもの。自由だとか不自由だって選んで、でもその選択自体は自分が選んでいるものもあれば、選ばなければならなかったものもあれば、選ぶことが出来なかったものもあれば、自分で選んだと思いこんでいるものだってあるだろう。でもそれ全部が選択という事態であることになっている。

 自由と主体性はわりとよく言われることで、自分に自由があると思いきや、外部から操られていて、それを自ら選んだのだと思い込まされているなんてのはSFでも定番だったりするのかもしれないが、選択とは結局そういうものでもある。自由も同じだ。外部から逃げられない人間は、外部の影響の中で生きざるを得ないなら、それを含んで自分だ。自分の内部から生まれるもの、は自分の外部から生まれたもの、は自分の内部から生まれたもの、というように無限に何かしら影響を与え/与えられて生きているのが人間であり、すべての生命はそうやって生きているのだとしたら、自由も選択も自分と外部との共同作業であり、その外部と呼ぶ存在自体含んで自分であり、個、個体、この体、体にある意識、知能、考えている主体だけが自分であるなんてのは不自由な定義になってしまう、ってことはもういちいちここに書かなくたって常識として存在していてもいいのに、いつまで人間は自分なんてもんを大事にしているのだ、私は自分であり、自分はこの体を含んだ世界であり、そこに指さされるような自分なんていないし、私の意思、意図、謀なんてものは世界との相互作用で生まれてきた、私複数、と数えることだって変だ、ここでいう私は従来の私ではない、のか? 区別がつかない、読んでいる人には区別がつかないのではないか。人称の問題なんて存在しないのだ、私は彼であり、彼は私にもなり、あなたであり、自分である、でも小説は過去形だ。現在形や未来形だけの小説なんて書けないのか、書かないのか、多分言葉として無理がある、どうしたって過去形だ、話はもう切り替わっている、ようできっとなにかしらあるから同じところに書いた。もうここまで読める人は少ないだろう、誰も読まなくたって文字はあり、誰も書かなくたって言葉はある。遠い星にいても1+1は2である。