1月第四週 関東は平和だ雪がない

1/23水曜日記す


日記のようなものかもしれない、というか日記とはどのようなものなのか。その日にあったこととかを書くってだけは知っているけれど。実はあまりわかっていない。だいたいフィクションと何が違うのか、いや全然ちゃいますやんって思うかもしれない、でも起こったことは記憶になれば、目の前で起こったときよりも遥かに希薄になり、そして全部思い出せない。記憶というものを根拠付けるのは、それは実際目の前で自分は体験し、見、聞き、触れたのだという、それすら記憶に頼っている、でもその記憶は強固であり、自分の中でほとんど絶対的なものとなっているわけで、だからこそ信じられる、それを私は見たのだと、希薄な記憶が記憶を担保する、のだとしたらやっぱり自作自演ではないか?

フィクションは嘘のことではない。これは個人的な定義かもしれない。嘘というのは少なくとも相手を損させようという悪意がある、それは良かれと思ってという形で善意の形もとるが、悪意と善意は交換可能なのでやっぱり同じことだ。(善意があるなら、そこに悪意を代入しても成立可能である)
フィクションに悪意はないのかというと、それは違う。ならフィクションだって嘘になりえるじゃないか、という主張はそのとおりであるとしか言えない。でも、大抵のフィクションは悪意ではないものがある。嘘は善意か悪意がベースになる、それは意志というものかもしれないが。フィクションに意志は不要だ。フィクションはこの世の中で起こらなかった(であろう)ことだ、誰もまだ見たことがないことのことだ、いや誰かしら体験したことはあるかもしれないが、誰にも知られていないことというべきかもしれない。
事実ではない、でも、嘘でもない。フィクションは現実の第三の側面といえるかもしれない。
というか、そのくらいの強度が前提でフィクションに接しないと、どうしたってわからないんじゃないか。
だいたいフィクション内でも差別や個人攻撃が許されない時点で、やっぱりどうしたってそれは現実と同じ強度だ。それが嘘なら、誰も歯牙にかけない。

だとしたら、フィクションを批評批判する際に、現実社会や現実の物理法則を持ち出してアレコレこねくり回す行為は、実際間違いではないんだろうとなる、ただ面倒くさいというかこれは言葉の性質の問題だと思うけれど、フィクションってのはイコール現実ではない。現実とフィクションは重なり合う部分がある、というか現実内にフィクションがあるという置かれ方をされている、けれど時にフィクションが現実を内包することだって起こりうる、という変幻自在なもので、だから作品ごとにその手法が有効なのか、場面ごとに有効なのかそれぞれで異なる、といういやー面倒だなほんと。だいたいこうして言葉にすること自体もう面倒だ。というか厄介だ、言葉は便利だけど最善ではない、不完全だから面倒くさいのが残っていたり、うまくいかないこともあるし、表現できないものだって言葉が生まれて何千年も経つけどまだあるわけで、それでも言葉を使っていかないといけないという、良いんだか悪いんだか、いや悪いことはないか、と書いて多分すげー読みにくいというか、んじゃ何がいいたいんだよと思う人がいるはずだけど、んなもんない。何でもかんでもオチがあると思ってはいけないのだ。


1/24木曜日記す


久しぶりに磯崎憲一郎の「赤の他人の瓜二つ」を読んだ。磯崎さんの小説が面白いのは、語り口というか、展開というか、言葉が意表をついてやってくるところがあって、「赤の他人の瓜二つ」はその意表さというか、唐突さが際立っている、ともすればそれは強引であるないし無理やりだと思ったり、唐突すぎてついていけないよぉなんて声も聞こえてくるかもしれない、が、この小説はまさに小説とは一行一行なんだということを体現しているもので、カフカとか坂口恭平の「現実宿り」にも似た風景だ、ここで風景という言葉を使ったが、つまりどういうことかと言うと、目の前に広がるあらゆるが漫然と、特に何かにフォーカスすることなく、でも確かになにかに注目しながらも、あらゆる無数が散らばっていて、言葉では同時に語りきれない世界が広がっているという具合というか、様というか、そんな気配である。わりとテキトーであることをご容赦いただきたい。でもとても面白い小説なのだ。チョコレート工場で働く男の話からチョコレートの歴史に移り、そしてその男の子供が成長し、結婚し、子供をもうけ、時代が移り変わり、その間おそらく三十年四十年という歳月を言葉がアッサリと通り抜けていく。
「私が死んだとしても、それは多くの死のうちのたった一つの死でしかない」という言い方が並ぶ、場面を変えて何人かの人間が同じようにそう感じることが描かれる。諦めの言葉のようにも響く、人生というものは自分ではとうていコントロールできない、自分の力など及ばない、そういう領域があるのだという大いなるものへの畏怖にも聞こえる言葉が現れる。私が生きていることは、実は自分でコントロールしていないのだという考えは、個人的にとても共感できる。自分の人生が自分でどうにかなっている、自分がどうにかしているという態度はあまりに傲慢に感じてしまうけれど、そう思うこと自体はわるいことではないはずだ。問題なのは、それでも自分でどうにもできないこと、が現れた時、小説内では溜池で溺れたり、海に落ちて漂流している最中であったり、チョコレートは昔薬として扱われていて、さらに言えば毒殺にも利用された経緯があるということを示す混ぜられた毒を口にした医師であったり、死に瀕した存在、おそらくそこまで極端ではなくても、生きていれば自分の力ではない場面というものが自分を取り囲んでいるということ、そのことをわかっておく、見ておく、そこにあると知っておく、という態度、そのくらいでいいかもしれない、力がある人間は確かに存在する、そういう人は周りを動かし、つまり太陽のように自分は不動であり惑星が周囲を動くのだと勘違いするかもしれないが、銀河単位で見れば太陽系自体も動いているし、銀河の集まりである銀河団もまた上位の構造のなかを動いているとわかっておく、このバランス。前に出るときと後ろに下がるときのタイミングは、わりと人生を変えてしまうくらいの効果があるんじゃないだろうか。

帰宅した彼は妻にも相談した。「そうね、私もお父さんたちはあそこから動かないと思うわ」だって家がなくなるという話をしているのに、その家から出ない、動かないという繋がりはまったく訳が分からないであhないか。「それかもしくは私たちがこの団地を出て、もっと田舎に大きな広い家を借りて、みんなで一緒に住むということね」なぜだか彼はそのときとうとつに、理解しがたいほどの強さで、この妻と自分が一緒に暮らしていることに猛烈な感謝の念が湧き上がった、その場で恥ずかしさもかえりみずに泣き出したいぐらいだった。この妻は、男であれば誰もが生涯の伴侶とすることを望んでけれどけっして添い遂げることはできない理想の女であって、もしかしたらほんとうは妄想の中にしか存在していないまぼろしなのかもしれなかった。*1

大仰に感じるかもしれない、でもこういう文章がほとんど唐突に現れた時の視界の開け方というのか、よくぞここまで書けた、書ききったという気持ちは、ほとんど感謝に近い、こういう文章を読むと小説ってまだいくらでもやることあるなと思えるし、未来があると思ってしまう。


1/25金曜日記す


どうやらわりと書くことがあるようだ。もっと書けないと思っていたが。ただ日記ではないような気がする、だいたい日記が苦手なのは何を書いていいかわからないということもあった、実際何をどう書けば日記っぽくなるのか。未だによくわかっていない、日常で起こったことや見たことを書くべきなのかもしれない、そんな「べき」はないのかもしれない。案外自由が利くものということなのかもしれない。でもやっぱりわからない。これを書こうと思っていたことはわりと忘れてしまう。こうして書いていれば思い出すかもしれないという期待を込めて書いていたりもする。というか書くべきことを思いつくことが起こるかもしれない。しかし日本語入力はいつ感心するほど頭が良くなるのだろうか。こういうところにAIを使ってほしい。
Homecomingsというバンドを最近知った。こういうの好きよ。

Homecomings "Blue Hour"(Official Music Video)


村上春樹の「神の子どもたちはみな踊る」を読み出した。多分三年ぶりくらいに読んだ、もしかしたらもう村上春樹は読めないんじゃないかと思っていた。多分長編のいくつかは読めなくなっていると思う。短編ではこれと東京奇譚集が好きだ。あとアフターダークねじまき鳥クロニクルダンス・ダンス・ダンス。それらは読まないで、十年ぶりくらいに世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドを読もうと思う。実はあまり好きじゃない作品で、一階しか読んだことがない。なんであまり好きじゃないかというと、村上作品にしてはわかりやすいからだ。この場合のわかりやすいというのはどういう意味なのかというと、ストーリーが強いというか、他の長編に比べてあまりにもっぽい作品というか、小説になる作品と小説である作品があったときに後者の作品というか、そういう感じだ、わかるだろうか。小説は小説になるものだと思っている僕としては、小説であると思ったがためにあまり読みたか姉なこいつって思ってしまったわけで、でもまあ十年一昔、そろそろまた読んでみようという気持ちになったわけだが、そんなの読んでないでベケットの三部作とか短編集(まだ殆ど開いていない)とかアウグスティヌスの告白とかドゥールズのニーチェとか、読みかけの東方見聞録とかインカ帝国地誌とかそのへん片付けなさいよというオカン的な自分がいる。まあまあいいじゃないか母さんというオトン的自分をそこにぶつけることで対消滅させるのがコツである。積読は続く。


1/27日曜日記す

今日はICCに行ってからフェルメール見に行くため上野へ。ICCでは吉開菜央の「いま いちばん美しいあなたたちへ」がどうしても見たくて急いで行く、だいたい15分位の映像作品で、振動と音声がわりと指向性あるというか胸の下辺りに一つ、頭上やや斜め奥側に一つ、左右距離は30cm以内に2つ、多分後ろにもあったかな。スクリーンは大きくて横10m
いや長さ目算するの弱いんであんまりあてにならないけど、高さは3mくらいじゃないかなあ向こう側に向かって湾曲してて、自分が球の内側にいてその球の内側の面にスクリーンが貼り付けられているって感じにスクリーンが曲がっていた。内容は特に書かない、ネタバレ避けでもあるけども、文字で書いてもピンとこないってのもある。あくまでもあれは見るということもあったけどそれと共に体験するって意味合いが強いから、実際体験しに行かないとってやつ、なんかな、それはそれで安定しすぎてやなんだけども。
体ってもんは、自分のものだとしても全然コントロールできないところがあって、というか、この場合できないのは意識である私で、自立して動く、不随意筋である内蔵はそれでも私の命令で動く、この場合の私は意識の私とは違う。人間はその2つを、少なくとも2つをある程度統合しているところがある、個人差はある、していないかもしれない。でもいちおうつじつま合わせをしているはずで、じゃないと日常でもっとこの意識の私と不随意的なコントローラである私の二重性を感じる場面が出てくるはずだ、でも普段そんなこと考えない、体の内部の調子はもうもうひとりの私であるところの不随意的な私に頼っている意識の私がこの文字を書いている間に呼吸や内蔵を動かす不随意的な私。体はこんなにも液体だったかとも思ったね、骨や繊維の集まりで強固になっていても、基本は細胞、そしてその細胞の中は水、液体、骨は鉱物だから、カルシウムが主成分だからそこまででもないけど、肉は液体がゆえの音がするよね、あの音、そしてその様子を再現する振動にやられる人いるだろうなと、体験中に思ったね。吐きそうになるやつ出るだろこれって。でもまあ、やっぱりただ見ているだけじゃないんだけど、でも見ているだけでも同じように感じさせるように、見ている側がもっとリアルに接近するというか、目の前で起こっていることは今この場面、私が立っているところでは起こっていないんだけど、でもだからといって実際起こらなかったわけでもないってのが映像で、そっち(スクリーン内というか表面)とこっちには明確な線が引かれてしまっているところを、音などの効果で曖昧にし、さらに取っ払ってしまったと思えるほどこっち側がリアリティに踏み込んだ、この場合スクリーンに足を踏み入れるのか、そっち側がこっち側にやってくるのかは作品によって変わると思うけど、今回は没入型だったからこっちが向こうに入るという形で、あれでも入っちゃったらそうとうやられるだろうな、俺はわりとそうでもなかった、そこは気持ちでブロックするところでもあったわけだし、VRだったらわからないけども、まだスクリーン上で起こっていることを見ているという構図のままだった、から安全でしたけど、でもまあこれはどの映画でも言えるというか、映像ならどれでもいけちゃう、人間側がどうするかってことだし、ああすげーとりとめないね、眠たくて頭が動いてない感じがするからこんな文章です、まあ今週はこのへんで。来週もあると思うけど、この調子で書いたり書かなかったりするはずなので。長いけど、だいたい六千文字だってさ。

*1:磯崎憲一郎著「赤の他人の瓜二つ」講談社文庫 P193~