この世のもの

この世のものとは思えない、という言い回しがあるけれど、この世のものであるわけだ。あたり前のことだけど、それを成立させるためにはこの世のもの以外ありえないし、あらゆる想像はこの世に現れたもの以外はありえない。考えたことないことを考えることができないということと同じで。
故にこの世のものとは思えないことがある。思わず出会ってしまった。


 土曜日に埼玉は東松山にある原爆の図丸木美術館に行ってきた。理由というか、何故行くことにしたかというと、そこで菅実花の個展「人形の中の幽霊」をやっていたからだけど、厳密に言えばちょっと違う。というかもう少し踏み込む必要がある。そもそもこの展を見つけたのは数日前のことで、そこで自分が何故この展に引っかかったかがわからなかった。新美術館でやっているクリスチャン・ポルダンスキーや森美術館でやっている塩田千春を見に行きたいと思っていた、よりも先にこっちのが見たいと思ったのは、きっとラマチャンドランの脳のなかの幽霊を読んだためだった。だから正確には本を読んだから行くことにした、だ。んで、どうつながるのか。人形の中の幽霊は、赤ん坊の人形を使って、死後記念撮影(遺体を生きているかのように撮影する文化があった)を撮る、人形だから死後もなにもないが、そういうていで撮るというコンセプト、そしてその写真は昔の技法、湿版写真で撮影されている、当然白黒だし、今の写真のように鮮明ではない、かすれもあればぼやけもある。写っている人形は、よく見れば人形だが、よく見なければ生きた赤ん坊に見える。いや正確には見てすぐに人形だとわかる、わからない写真もある、でも写真に写る人間はみな表情が凍っている、動かないだから人形のように見えることもある。たまに広告に写る人の顔をじっと見ると、ゲシュタルト崩壊みたいによくわからなくなったり、明らかに美人だったのに急にそう見えなくなることがないだろうか、俺だけか、いや俺「だけ」ってことはないだろうけども、人形と生きた赤ん坊との境界が曖昧になる、目の前の存在が意識を持っているかどうか、どうして他者が自分と同じように意識のある、ロボットではない存在だと見えるのか、そのへんの鳥や昆虫はどうだろうか、どうして人は擬人化するのか、他者を擬人化することで他人にしているのではないか、と考えたのが脳のなかの幽霊を読んだからだった、そこでつながってわりと遠い場所に行ってみたくなった、遠いというのは単なる物理的な数値の意味で、心的な距離は明らかに六本木よりかは近くなったからこっちに行ったのだ。


 んで、知らなかったんだけど、その名前にあるように原爆の図という作品があった。丸木美術館の名前になっている丸木夫妻、丸木位里丸木俊という画家が作り上げた15点の絵画、作品としての良さと、資料的な意味、原子爆弾というものの、さんざん聞かされてきた恐ろしさやら、そういうものにリアリティを与える存在感。選挙が近いということで、いろいろと繋がってるなあと思ってしまったのだった。想像力、リアリティ、自分を自分で振り返り、顧みて、検分して、そういうことはとても難しい。自分が正しいと思ってしまうこと、間違っていないと思いこむこと、その基準、見ればわかること、当たり前なことが当たり前じゃなくなっていること。