目で見るということ

 例えばりんごが目の前にあった状態で、これはりんごだという言い方をすると、その「これはりんごだ」という言葉は目の前にあるりんごによって強固に「証明」される。
 確からしい、というより、絶対であるとなる(目の前のりんごの実在性はこの際問わない)。この時にりんごの意味はズレない、目の前の、唯一のそれのことを「りんご」と呼んでいる、だからこの場合英語にすれば「the apple」ってことになる。
ここにあるのは五感だけど最も顕著に効くのが視覚で、見る、在る、意味する、ということが揺るぎない。一方で人間はもっと具体性のないことだって話をする、ここが問題になる。
 例えば記憶。ここにりんごがあった、という言葉の確からしさは何が担保するのか、その人は自分の記憶を拠り所にする、第三者は発言者をまず拠り所にする、それから客観的な証拠を拠り所にする(残り香やりんごの成分など)、でも普通会話でそんなことする人はいない。これは会話での話。
相手を信じることで、りんごがあった、ということを信じる。証明は不要だ。
 一方で、文字ではどうなるのか。これは傾向、無意識的なあるいは意識的な判断のことで、絶対そうであるという意味ではない、それこそ人による案件だけど、目で見る文字は、きっと目の前にりんごがあるくらいの強度があるように感じているんじゃないか。これはあくまでも仮説だ。
 インターネット、とくにツイッターでの物言いは、会話ほど情報量が増やせない(増やすような書き方をしない)し、文字は目で見る、そうなると書いてあることが0か1かみたいな、意味に幅を持てない、かっちりとしたものとして認識しやすい、認識というか、そういうものだと思う傾向が生まれるんじゃないかと考える。だから極端な二元論が幅を利かせるんじゃないかと思ったりする。単純なわかりやすさというのもあるだろう。

 だからこそ、わかりにくく、伝わりにくいことの方がいいことだってある、文字なら尚更に。会話だと、相手の発言が冗談なのかだいたいわかる、相手が仲の良い相手なら尚更だし、相手の言い方、言葉の調子、態度、表情、過去の言動、人柄、そういうもので総合的に判断可能。文字ではそういうものが特に難しいし、匿名性の高さや誰でも読むことが可能であるということから、あーここからは面倒なのでもういいか、ありきたりだし。