二月第一週 なんだかあったかい

2月4日月曜日記す



あまり方向というものを持たないほうがいい、ような感じがしている。好き嫌いをわざわざ具体的に決めておくことをしない人らしく、だから好きなものとか、例えば好きな料理ってなんですかって言われてもすぐに出てこない。だいたい好きだし。美味しければみんな好きだろうみたいな。態度としては八方美人だろうけど、別に八方美人になりたくていっているわけじゃなくて、ほんとうに美味しければなんだって好きだ。しかし、それを人に当てはめると途端に修羅場になる、不思議だ。あなたもあなたも好きじゃどうも駄目らしい、なんでだろうか、そんなに他人を独り占めしたいのだろうか。独り占めしたいって思える人と出会っていないのだ、という見方は少なくとも間違ってないだろうな、とは思う。一方で、そう思いたいだけなんじゃないのかという気持ちもある。でも、そう思いたい以外何があるというのだろうか。とも考える。
流れで書くけど、もう三十の真ん中になって恋愛なんてしないようにも思う、できる人はまだまだ若いというか、体力がある人だ。恋愛はひたすらに面倒くさい。人との関係において、恋愛は相手の理想とそのギャップとどうしても好きという盲目さのブレンドになっていて、人に対してそこまで強い幻想が見られるということは、人間は現実とフィクションを区別しないという構えを持っている、のだから、ドラマや映画を見てんなもん嘘やんってわざわざ思わないで、面白いものは面白いと思って見られる。しかし、面白いものってのは何か。あっさり面白いって言えてしまえればいいのだろうが、それはそれで浅さを感じてしまう。面白いということがわかるってのは、結局未来に向かっていないというか、少なくとも昨日までの自分の範囲であって、現在の自分、つまり昨日までとは違う新しい自分ではない、が新しいことが全て良いことでもない、しかし。
という具合にずーっと考えていける、こういうものはおもしろい。作品、芸術、表現はあくまでもそれ自体に意味があるわけではない、川の流れや風が吹くことと同じで、それ自体に意味はない、それを受けて意味が生まれる、原因になっている。何かが立ち上がる原因として作品がある、そうしたら初めて意味が生まれる、最初から意味があるようなことをやっていたら、自分の感覚としてこういう時の言葉はこういう感じだ、狭いと思ってしまう、浅いでもいいが狭いだ。今その瞬間流れた川の水分子に意味などない、でもその分子、もしくは水の水素結合で結びついた分子一式やイオン化して溶け込んでいるその他分子がなにかに作用して、やがて大きいことにつながる「かも」しれない、そうなったら初めて人の目に見える形になり、意味が生まれる。例のごとくオチはない。なんでもオトさないといけない、話の終わりには、というのは俗にいうお笑い病で、明石家さんまが罹患していることで有名だ。


2月6日水曜日記す


今月はあまり散財したくない、ので抑えているのだが、抑えているという気持ちがあるのがもうよろしくない。使わないのが普通くらいの顔でいたい。久しぶりにズボンを買った、ズボンっていう言い方は間違ってはいないが、たいてい店に行くとズボンなんて名称は使われていない。パンツだ。「ン」の部分を上に上げて言う言い方のやつだ。しかし慣れない。ずっとズボンで育ったんだからそりゃ慣れない。カットソーってのもよくわからない、上着ではなくて、でも上着でもあるようなヤツのことだけど。服飾用語は全く慣れないから難しい、小説を書く時も困る時がある、特に女性の着ているものを書かないといけないときが困って、一回街に出て目に入った女性のファッションを記述してみようとしたのだけれど、なんて言っていいか分からないものが多くて困ったことがあった(ここでも困る)、こういう時はよく知っている人と一緒にやったほうがいいのだけれども、まあ追々ね。
帰ってきてすぐにけんちん汁っぽいものを作った。けんちん汁は漢字で書くと巻繊汁となる、ずいぶんと大仰な感じだ、巻繊ってのは中華料理の一種で、千切りにした野菜類を炒めて、油揚げで巻いて揚げたものらしい。そこから千切りにした野菜で作る汁物ということで巻繊汁ということらしい、なるほど千切りなのか。まったく千切りにしてないや。漢字がひらがなに比べて、もしくはその言葉のイメージと比べてずいぶん大仰だと思うものにつつじがある。つつじは躑躅と書く。実際紙に書けと言われたら書けない。髑髏みたいな文字だ。勿論髑髏も書けない。


2月7日木曜日記す


職場はパン工場なんだけど、夜は食パン食べ放題なんだよね、実際ちょっと違うけどまあそんなところで、で、今食パンのセクションが工事中で、だから食パン作ってなくて来週も食パンなしで過ごさないといけないって、わりとやーだなって思っている、腹減るからね、腹減った時ちょこっとつまむ感じが良かったんだけども、なんらか用意しないといけないのがねえ、だからすごく腹減ってて仕事中に食べ物のことわりと考えてて、素直だなあって思ったね。よくいくスーパーに結構な頻度で置いてあるめっちゃ分厚いステーキ肉があるんだけど、それをどうやって焼くのが一番いいのかみたいなことを考えたり、最近よくいくパン屋に週末行くかどうかとか、家の近くにもパン屋があるからそこで済ませればいいかとか、週末はまたモスに行こうとか、いやモスが潰れてほしくないんだよね、ゆっくりできるし、本を読むのにちょうどいいんだよって。でも先週日曜日、土曜日だっけ、多分日曜日だけど行ったらさ、だいたい夜八時くらい、全然人いないのね。モスバーガーはもっとハンバーガー屋として売り出すべきで、ただのファストフード店ともっと一線を画すようにしないと、提供の早さで負けちゃうのが良くないんだよね、味は明らかにうまいけどさ。
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド読んでるけど、なんというか異様にまどろっこしい書き方しているというか、無駄口が多いんだよね、そこにうんざりしつつ、村上春樹の小説に珍しく、計算士とかシャフリングとか空想の設定がバシバシ出てくるんだけど、それを軸にして動かしている物語自体は大して興味がなくて、全然関係ない記述が出てくるといいなって思う、それは無駄口が多いって言ってるそれとは違くて、無駄口ってのはただ車が走っているのを見たっていうだけの文章にゴテゴテいろんな言葉がくっついている状態で、いいと思うのは物語とは直接関係しないような記述の方で、小説はやっぱりこっちだなと思う、今意味がなくても、物語を動かさなくても、それがあることでやがて原因になるような、今通り過ぎた風に意味を見いだせなくても、時間が経てばあの時の風がってなるような、それこそが芸術だと思うんですよねさいきん。


2月10日日曜日記す


最近良く考えるのは、どうして人は権力を持つと駄目になってしまうのか。駄目というのはどういうことなのか、本当に駄目になるわけなのか、いやどうだろう、ある種の人たちからはむしろ称賛されたり、喜ばれたりはするのだろうか、おそらくそうだろう。そこに分断があるのだろう。
関連しているのかはわからないが、権力があるもの(とされる、もしくは自らみなしている)存在が起こす暴力(セクハラ、パワハラ、強制わいせつ、暴行など)とそうでない存在の暴力(前者と内容は同じ)に違いはあるのだろうか、ケイサツが起こした不祥事としての暴力や教員(それらに準ずる立場、関連する立場の)暴力はわかりやすい構図がある、つまり「支配」だ。または「自分は権力があり偉いのだ」という意識だ。しかし、この「偉い」とはやっかいな症状だなと、ここ最近は痛感することが多い。人間は「偉く」なってはいけないんじゃないか、とさえ思う。偉いと思われるのはいい、それは立派だから。つまり内情が伴うというのか、内情なのか内状なのかはわからないが。しかし、偉くなるのはよくない。外側にベタリとシールを貼り付けるように、昇進がそのいい例ではないか。肩書ともいうかもしれない。
思うのは羽生九段である、将棋の。彼は将棋界の顔である、国民栄誉賞も獲ったし、よく知らない人でも羽生善治の名前は知っている(羽生名人って呼ぶかもしれない、名人じゃないけど)くらいの存在、だけど彼は将棋棋士会の会長には決してならないと思うし、多分そうなるだろう。なってしまったら、名実ともに権力になってしまう、ということがイヤというか、恐れているというか、そうじゃなくて単に忙しくなって将棋の研究があまり出来なくなるのが嫌だから、かもしれないが、でも彼はそういうことはしない。会長になることが駄目なことということではなく、権力というものにどう接するか、どういう態度をとるかということだ、自分の持つもの、持っているもの、周りからどう思われるかということ、バランスというのか。もちろん単なる妄想だが、でも権力を考える時に頭の片隅に存在するのが羽生九段なのだから、自分の中でそこに繋がりがあると思っているのだろう。
一方で、権力や権力志向の人たちの中には人を引きつけるタイプもいる。これは別計算にするべきなのだろう、多くのそういう存在がってことではないのだから。でも、そういう体臭の濃い(比喩です)人たちのが、人を引きつけるのはわりとあるあるな気がしてしまうのは、体臭のない自分を翻って見ているからなのか、いや単にお前は、いや止めておこう、武士の情けだな、あはは。今週はここまで。