2月第二週 統一感はない

2月12日記す


正確には昨日の夜からなんだが、今日の朝ずっと仕事中に考えていたことがあった。しかし、どうしてそんなことを考えたのかは謎だった。個人的に引っかかっていたからだろうか、多分流れとしては最近話題になったアルバイトの不適切行為の動画問題から、千葉の虐待の話に移動して考えたことだったはずだけど、きっかけはまあどうでもいい。そもそも虐待もそうだが学校や職場などの閉鎖的な環境でのいじめ行為、いじめという言い方で行為が和らいだ印象になるのがあまり好きではないので暴力とするが、そういうものが一向に減らないのはどういうことなのだろかと、学校内暴力行為なんて俺が学校に通っていた時よりも前からずっとあるし、その時から20年も経っても消えていない。最近は虐待の報道も増えた、おそらく見えていなかった、報道してこなかったという経緯はあるだろうけれど、どういうことなのか。どういうことという疑問よりも、考えたのはそういう行為を加害者のせいにするやり方がほんとうに正しいのか、と思ったのだ。
おそらくは間違いでない、やったことに対して償うことは必要だから、でもそれは根本として虐待、学校内暴力などの根絶に至る道ではないと思う。だからツイッターで虐待した親をボコボコに口撃することは、あまり意味がない。と思った。それはそういうエンターテイメントとして消費されてしまうだけだ。一ヶ月後、覚えている人がどれだけいることか。大事なことは容疑者を攻撃することではないはずだ。



人は天井に頭がぶつかると思えば、そこを通る時はかがんで移動するだろう。まさかそのまま進んで天井を破壊するなんてことはしないし、できない場合のが多い。人は周りの環境に合わせて形を変えて生きている。それは実際の体の形ということでもあり、その人の有り様、考え方、思いだって環境によって変化する。虐待も学校内暴力もハラスメント関連も、環境を変化させないことには根本に届かないはずだ。人を変化させればやがて変化した人が増えれば環境は変わるだろう、でもそれはとても時間がかかるし、人よりも環境を変えるほうが楽ではある、が環境に人間という存在が入っているがためにやっぱり難しくもある、が虐待をしない人をと考えるよりも、虐待を許さない社会であったり、虐待が起こらないような社会を作るほうがよっぽど効果的なはずだが、なぜだかそういう考え方をしているのかしないのかわからないが、そういう運動や政策を打ち出していると聞いたことがない。学校内暴力も同じだ。起こって、生徒が自殺して、再発防止などと言う言葉が聞こえてくるが、では何をしたのだろうか。人間の意志や思考(志向、嗜好、指向)はむしろ環境によって影響を受け変化していくものではないのか。ということがまず一つ。

もう一つは言葉の問題というか、人間は言語、言葉というもので世界を捉えるわけだけれど、言葉の特性によってなくならないものがたくさんあるんじゃないかと考えた。それは言葉というものは本質的に肯定であるということだ。言葉はこの世に存在しないことを言うことができない(表せない)。それが空想の産物だとしても、言葉として現れたらそれは概念として存在する、一方で言葉表すということは、どうやっても言葉として存在させてしまうということで、一度言葉として存在させたら、それを取り消してまったく無だったころに戻すことができないし、どんなに否定しても、その存在を否定しても、言葉での否定はその否定対象が存在するという条件を肯定した上でしか否定できない。つまり言葉というものは本質的に肯定のことで、だから虐待という言葉がある以上虐待というものはなくならない。どんな言葉で虐待を否定しても、「虐待の存在」を肯定した上での否定になってしまうから。存在自体を否定することができないので、存在を消すことができない。しかし行為自体は消すことができる、理想論だが、それでも虐待という意味は消えない、消えるとしたら虐待が全く起こらなくなり、虐待(という言葉)を知る世代がいなくなることだけだが、それでも消えてなくならないと思っている。この世に起こったことは、人が見えなくても、世界に傷跡として残り続けているから。そこに水が流れなくなっても、川の名残としての筋道は消えてなくならない。それはいいことでもあり、悪いことでもある。言葉が肯定であるということも同じで、いいこともあれば悪いこともある。現象の良し悪しは人間が決めているだけだからだが。

うまく書けなかったがまあいいかなと。自分の考えをまとめてみただけだし、人が読んでわかるようには書かなかった。勿論結論はない。ずっと考えていくことだし、定期的に考えないと忘れてしまう。




2月14日木曜日記す


わからないだろうことを書くけどまあ許してほしい。最近は毎日GRAPEVINEの新しいアルバムを聞いている。思っているよりもずっと気に入ってる自分がいるようだ、ということに気づいた。例えば、光についてとかスロウとかhereとか放浪フリークとか、真昼の子どもたちとか、アルバムを象徴するようなリード曲というか、キャッチーでわかりやすくいい曲という風情な曲がこれといって無いアルバムになっていると思う、いや言い過ぎか、最後のすべてのありふれた光はキャッチーではあるけれど、でも毛色がやっぱり違う雰囲気も違う。ハンバーグやステーキ、オムライス、寿司といったわかりやすい料理は並ばないけど、でもおいしいっていう感じのアルバムで、だから日々聞いてて飽きが来ない、来ないというか飽きにくい、飛び抜けたものがあるとどうしても飽きやすくなるのは、力を込める場所が決まってしまうようなことが起こりやすいからじゃないか、どれもいいってアルバムで、全曲がハンバーグってこともあるけれど、それでもやっぱりそっちの系統よりも、小鉢に入ったきんぴらとか里芋の煮物とかひじきとかくらげと胡瓜の和え物とかそういう感じの良さもまた別の良さとしてあるわけで、その良さを感じる、というか逆算したらそういう感じではないかという分析だが、あまり面白いもんじゃないなとここまで書いて思ったので急にやる気が削がれたのでしかたない。だいたいこんなこと書いてるときに、曲を聞いてる時の興奮とかいいと思っている気持ちが現れるわけがないのだから仕方ない。村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドを読み終えた。次はゴヤの2巻目を読もうかと思う。ハードボイルド・ワンダーランドはやっぱり助長な書き方がされていたと思う。少し離れてわかったけど、とにかくその余分な比喩はなんだよと思ってしまうことが多かった、効果を生み出さない比喩が出れば出るほど、作品に対して集中できなくなる、言葉の意味に入り込めず、その言葉を並べた現実に意識が向くからだろうか。とにかくやっぱりハードボイルド・ワンダーランドは好きじゃない作品だなと確認できたので、未来永劫読まないと思う。SFにしては説明がなさすぎるし、ファンタジーにしては説明しすぎだし、純文学にしては強度がなさすぎる作品なんじゃないのこれ。あと主人公はもっと女性を大事にしたほうがいいと思う。せっかく好きになってくれてるのにね。



2月17日日曜日記す


昨日の夜に渋谷WWWというライブハウスでRopesというバンドのライブを聞いてきた。そもそもRopesというバンドを知ったのは、KARENというART-SCHOOL木下理樹戸高賢史とアチコというボーカル、downyのベースとドラムという編成のバンドからで、二枚のアルバムを出して、気がついたら解散してて、アチコさんの声がすごく好きだったからうわ~残念と思ってたところ、多分数年後、Ropesという名でバンドやってる、二人で、と知ってそれからずっと追えるだけ追ってるという関係性で、町田にあるお寺でのライブとかそれはもう五年六年前くらいになるのか、全然正確じゃないけど、WWWではアルバムリリースのときにもワンマンやってて、それを思い出しつつ。基本は二人、アチコさんが歌って、戸高さんがギター一本で全部やるという感じ、もともとアチコさんは楽器全然できなかったって、でもお寺のライブの時ピアノ弾いてたけどね、人前に出せるほどじゃないって言ってたか、MCで。
エネルギーが満ち満ちているけれど、それが爆発したり、何かを噴射したり、外に向かって広がっていく感じではなく、楽曲が、そうなる手前ギリギリまで力をためてためて、あふれるあふれないという曲が、バンド編成で演奏することで、内在していた力が弾けて、わかりやすくいい音の放射につながっていく。アチコさんの声は衰えない、ずっといい。バンドになると音が増えすぎて、混ざってしまって、だからギターの音がどうのって、素人の俺は言えない。わからないから。声はでもわかる。音の中でもはっきり区別して聞こえる、のはどうしてだろう。そういうやり方があるのか、それとも人間の耳の特性なのかはわからないけれど、かき消されない声とバンドの音の厚み、カラフルさ、つよさ、細かさが混ざって、あんなに多幸感のあるものって多分麻薬くらいじゃないかって。

ROPES "SNOW" LIVE AT KABUKICHO FURINKAIKAN NEW JAPAN



Ropes メトロ(LIVE)


"Lorraine" / KAREN