2月三週 花粉が来た

2月19日火曜日記す


保坂和志の遠い触覚を読んだ。出版されてから三回読んでいた、記録によると。回数はどうでもいい、いやもっと読むべきかとかは思うけど。前半はとことんとんとんデビット・リンチの映画のことを考えていて、最後はやっぱり猫の話になる。そしてあとがきがほんとすごい。伝わらないだろうけど、文字から火が出てるって感じる。燃えるイメージではなくて、なにかこう激しいものが飛び出てきているように感じる。こういう大袈裟な言い方は昔だったら、十年前とかだったら全然信じてないし、書けなかった。でもそう思うのだから書けるようになった。嘘を書くことってのは、本質的にというか、本来的にというか、生まれながらの嘘つきじゃない限りは書くことに抵抗が生まれる。気恥ずかしさみたいなものもある。書けるということは、そう思っているということだ。だからこそ、自分の書いた文章に驚きたいのだ。自分が何を思っていたのかがわかる。まだ見えてないそれがわかる。そこまで手をのばすのはやはり難しい、カフカはとにかく書いた。だから断片がいっぱいある。彼の友人で、書いたものを焼却してくれと頼まれたマックス・ブロートが結局焼かずに残したからある程度は残ったけど、自分で焼いたものもあるらしい。今残っていない焼かれて無くなった文章が今ここにあったらなあ、惜しいなあとは思わない。カフカは書いた。それで十分だ。書いたのだから、現物が残っていなくても、焼かれて無くなった文章は一度この世に現れたのだからこの世に現れている。誰かが書き、誰かがそれを可能にしたのなら、世界はその方向に向けて光を放ち、今まで暗かったその空間が明るく照らされるようなイメージだけど、そのイメージに頼りたくはない。そうではない、とも思わないが、そうだとも思わない。とにかく書いた、一度書いたならもう十分だ、言葉は過去から連綿と連なったものなのだから、カフカから見た未来である僕らは、カフカの書いたものを受け継いでいる、大げさかもしれないが、そう思っている。


2月24日日曜日記す


最近割と元気が無いというか、人と会話する気にならないというか。言葉を出したくないというか。それがここにも現れているような、多分疲れというものもあるだろうし、いろいろグジグジと考えているときにもこうなるので両方だろうなと思っている。トーキョーアーツアンドスペース本郷(以下TASH)というところに行って、霞はじめてたなびくという展を見に行ってきた。芸術というものを日常、というか世界というか社会というか環境というかつまり身の回りから「芸術」という言葉にして取り出してみせることを、分析というわけだけど、わざわざそうやって取り出さないとわからないのが人間で、同時にそういうやり方でないやり方だってあるんじゃないかと思ったりもするのだけれど、いちいち最初に書かなかったけれどこれ以降そうとうとりとめないことを書くので、こういう注意書きって結局言い訳で、自分への自分の言い訳というか、読む人に向けているようで実際自分に対して許可を出しているようなところがあるからあんまり書きたくないんだけど、書いちゃったのでそのままにして書くけど。同日に森美術館六本木クロッシング2019も見てきたんだけど、より強化されたのだけど、芸術というものを日常から切り出すことへの疑問というか、ではじゃあどうしろっていうのかというといちいち展とかやってますって言わない限りそれは認知されにくいのだけれど、美術館に飾ることでのつまらなさというか、その辺の街頭でどうしてできないのかっていうのは社会的な問題で、社会ってのは人間の能力の一部を抑えつけることで成立していて、そうした秩序を芸術が呼び戻すことで薄められてしまう、という事が起こりかねないがゆえに、美術館とかアートセンターみたいなところに押し込めることで秩序を作り出しているんだけど、いちいちああいうところに「出かけて」「見る」をしないといけない窮屈さみたいなものを感じてしまったんだけど、それはそれで層としてあって、同時にTASHで見た映像の面白さ、絵の面白さ、森美術館で見た作品の良さみたいなものを感じている自分もいる(そこで納得してしまっている)わけで、人間って面倒くさいなというか、ままならないなあって思ったのであった。作品のことについて全く書いてないけれど、書けないから書いてない。面白いとか良いとかは言えるんだけどそれ以上何も今のところ出てこない。もともと吉開菜央という作家を最近知って、面白いなと思ってたら展やるって知ったので行ったんだけども。吉開さんの静坐社という作品(内容はググってね)における体の濃淡というか、映像で見せる、音で聞かせるところの体の存在感のゆらぎみたいなもの、つまりは薄くなったり濃くなったりする動きが面白くて、あれは何回もループで見られるわと思った、こうして言葉にしてもでもやっぱり言葉が不完全というか、言葉が不完全というより人間が不完全なので言葉も不完全にならざるを得ず、言葉を重ねれば意味がズレ、その修正に使う言葉でもさらにズレていくという、コンマゼロのあとに9を無限に重ねても1にならないような(しかし数学的に0.999999....と1はイコールではある)一致しない感覚はずっとある、感覚として世界を捉えているこの身のリアルさは言葉に移しきれないが、言葉によってあのリアルさをまた別の言葉を受けることで再生ないし再現可能であろうとは思っているのだが、そう簡単なことではないのだけれど。わかるとかわからないではなくて、面白かったなあ、ってのは個人的にはいい感じ。わかったみたいな気持ちになった時は、もしくはわからないなと思った時は気をつけないといけない、と思っていて、そういう意味では佐藤雅晴の福島尾行という作品はわからないと思ったのでこれは注意だと、どういうことかというとわかるとかわからないという層で考えるということは言葉にしようとしているということで、対象は映像で音で、それらは言葉ではない。人は言葉によって世界と接することに慣れすぎていて、それを意識せずともほとんど生きている間ずっとしているその秩序立った行為で作品に接することは結局失敗するのは前述したとおり1にはならないからで、自分の中の秩序立ってないような部分をきちんと探して、それを認識できている人がどれだけいるのかはわからないけれど、そういう部分で楽しんでから言葉のターンになるんじゃないかと思ったり、いや正しいかどうかはわかりませんけど今はそう思っているのです。それは同時に西村有の絵にも言えて、言葉にしないようにただ見るなんてことができるのか人間にこの21世紀を生きる文明というものを作ってそれにどっぷり浸かってしまっている人間にと思うのだけれど、最近中沢新一を読んでいるせいか、できるんじゃないかなあと思っているのでやって見る価値はあると思いつつ、でもやっぱり言葉じゃないんだよなあとかいう言い方も違うんだろうなあ、違うなあって思いながら見た。あとシナボン食べて血糖値を上げました。花粉はやや控えめ。沈丁花はまだ先の話。