わたしたちはいつかのだれか

生きていることと死んでいることは対極ではなく、もはや別の様相である。対極というのはイコールで同じということでいい。白と黒は対極の色だが、黒とは白くない、白が0の色ということであり、白はその逆で黒が0の色として表現が可能である一方で、生と死はそのように交換可能と見せかけて実は違うのではないか、とふと思った。というかそういうようになんでも疑ってみるのが癖になっているとも言える。
今年の桜は去年よりも遅いんじゃないか、正確に覚えていないので雰囲気でそう思っていたが実際遅いらしい、近所の公園の中心に生えている立派な、上から見たら直径十メートルくらいはあるだろう枝を広げた桜の樹は満開、とまでいっていない。ところどころ満開だが、まだ咲いていない部分もある。家から一番近くにある、線路脇に生えている桜も同じで、低いところの花は咲いているけれど、高くなるに連れて咲いていない割合が増えてまだつぼみであったり、花が見え始めたという感じで、なんとなく春だけど春っぽくない、と思うのは花の香りがまだしてこないからだ。沈丁花はもう終わってしまったが、あの春特有の花の甘い香りが空気中に充満して、日差しが暖かく柔らかな印象で、世界が明るいあの時がまだやってきていないので、冬はまだ居残っていると思う。

わたしたちは、いったい何回目のこの人生なのかは誰も知らないが、数学というか統計的な計算だと思うが、計算すると同じ人間が生まれる確率は一億分の一と聞いたことがあるが、それなら今までに一人は同じ人間が生まれてもおかしくないが、同じ人間とは何を指すのかわからない、クローンということだろうか。クローンは同じ人間ではない。やっぱりわたしたちは一回限りのこの体と精神と心と魂を持って生きる。そして死んでいく。桜の儚さは死を連想させる、したくなくてもそう思ってしまうのが日本人の文化ということでいいだろうか、櫻の樹の下には死体が埋まっていると書いたのは誰だったか、梶井基次郎だったか、確かにあのソメイヨシノの中心が花弁に比べて赤く目立っているアレを見ていると、どうも気持ちが悪く、私はやっぱりヤマザクラ系の先に淡い緑色した新葉が出て、それから花弁が白い花が咲く品種が好きだ。あの緑と白との対比、樹皮の光沢ある浅い茶色もいい仕事をしている。春は嫌いではない。でも体調は夏に近づかないと、どうもあがっていかないようだ。歳の重なりを感じてしまう。