裏の浦々

当たり前のことだけれど、今自分が見えないところにあるものは、自分が見ていなくても存在している。
具体例を出そう。今自分は日本にいるわけだが、エジプトのギザのピラミッドを直接目で見ているわけではない。でもギザのピラミッドがそこにあるということを知っている。今この瞬間どこかの何かの勢力がギザのピラミッドに爆弾を仕掛けて大爆発させて粉々に粉砕していない限りはそこにあることは知っているし、それは自分が見ている見ていない関係なく、ただある。わけだけれど、不思議とこれがわかってない様相を持つ人達が存在しているのではないかと思うことがある。


ツイッターでもいいし、日常生活での何気ない会話でもいい。あらゆる発言には必ず裏がある。その裏ってのは具体的には何を指しているかと言えば、真意であったり、本音と呼ばれるたぐいのものでもあったりする、でも今からいいたいのはそれではなくて、その発言に至ったバックグラウンドと言えるようなもののことだ。もっと平坦にして、楽にいえば、前提でもあるし、先入観でもあるし、想いでもいいかもしれない。そういうものは、たいてい発言の表にはなかなか出てこない。相手が一体どんな前提で、条件で、先入観を持って、今の発言をしたのか。と思うことがわりとあるということですね。どうだろう、思わないだろうか。
冒頭の話とどう関連しているかと言えば、つまりこうだ、前提は普通発言されないし、それは無言で共有されているものとして扱われていることがままあるということだ。簡単な例をあげれば、りんごの話をする際にはりんごというものがどのようなものかという共有がある、そしていちいちりんごがどんなものか説明なんてしないで話をする。それはりんごというものを知っているという前提があるからで、あると言ったがほんとうにあるかどうかはわからないが、とにかくみんな知っているものとしてりんごの話をする。これがりんごならいい、イヌでもネコでもアボカドでも三輪車でもいい、でもそれが他者の思いの入ったものだったらどうだろうか。その人の感じたこと、見たこと、その人が体験したことだったらどうだろうか。

前提が共有されていない状態で、一体どんな前提があるかという思考がないままに会話は、おそらくほとんど噛み合わない。いやかろうじて噛み合っているように見える、くらいだろうか。全て共有不可能な話ならまだいいマダイイリドウイルス病ってなんだろう、まあいいや、まだいいんだが、ある一点であったり、ある一視点でのだったり、多少幅を持つ共有不能箇所がある時があり、そのときにそれを質すことなく会話をすることは、会話が噛み合わないということを引き起こす原因になる。たぶんすごく当たり前のことを長々と書いたと思うんだけど、でも、案外忘れるよこれ。ツイッターのリプライ欄、有名人のとかいわゆるバズったやつ、RTで流れてくるものの中を見るとたいていこういうズレがある。本文に書かれていない前提がわかってないがゆえに、クソリプになってしまっているもの、的外れな指摘をしているものがたくさん見られる。わざとかと思ってしまうし、以前はわざとやっている愉快犯なんだと思っていたが、最近ではそうではなくて本当にわかっていないのだと思うようになった。使っている言葉はわかるのだけど、言葉が通じないってのは恐ろしいことのようにも思う。大げさだろうか。そして僕の書いたことは伝わっただろうか。わりと不安ではある。小説だとそんなこと考えないんだけどなあ。